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着物辞典|京友禅の歴史|京友禅工程|着物まめ知識|着物のお手入れ方法|着物を作るには|着物よくある質問Q&A |
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![]() 江戸中期(1678年)京都知恩院門前に宮崎友禅という人が住んでいました。元々友禅は扇絵師だったのです。扇に、判じ物めいた洒落た・遊び心いっぱいの絵を、画くことが大評判となって扇だけでなく、小袖などの衣装の染模様に「友禅の絵を」と多くの注文がされるようになりました。扇絵から染めものの図案として大ブレイクしたのです。(写真:京都知恩院に有る宮崎友禅斎の銅像) |
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![]() これに比べ、友禅染は、絵を書くように、思いのままの絵柄を布に染められると言う、画期的な技術だったのです。その為、多彩な色を駆使するので、染料が他の部分に、にじまな い様に、防染しなければなりません。その為にはもち米の糊を使います。糊を使った、防染の技術はすでに古くから使われていたようですが、友禅はその技術・染料を改良し、この技法を確立したことが発展の元となったのです。友禅染は、こう言う点からも染色技法として大変すぐれたものだったので、人々に絶大な人気を博したのでしょう。(写真:賀茂競馬文様小袖・京都国立博物館所蔵) |
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![]() いかに全国的に友禅染が広まったとはいえ、それは限られた地域、限られた人々への供給に留まっていました。 それを大衆化し大量生産しようと言う意味で、数枚の友禅型を用いて文様を染める型友禅が行われていましたが、江戸時代後期の友禅染というものは、いずれにしても、たいへん高価な物で、将軍家・諸大名・御所方での需要、町方では三井や鴻池などの豪商が、婚礼衣装などに用いる程度だったのです。 少し話がずれますが、尾形光琳作・国宝・かきつばた図屏風にも、この型染め手法と同じ「拾い型」といわれる型を使い、 同じ文様を、画面のあちこちに配置する手法を用いている事は良く知られている事です。 絵画の分野だけ出なく、琳派より以前から、いろいろの分野で「拾い型」は行われていました。(写真:寛文小袖梅樹に雪景文字文様小袖・京都国立博物館所蔵) |
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![]() 開国によって多くの産業技術が輸入されたのは皆さんもご存知のことと思います。 明治3年京都にも舎密局(せいみきょく)が開設され、織殿と染殿が併設され、ここで科学染料の研究と講習が 積極的に行われました。 広瀬治助と言う人が科学染料を用いた写し友禅の発明は、一気に染め物を手工業から工業へと変革をもたらしました。友禅における産業革命とも言える大きな出来事と言えるかもしれません。これは、科学染料を加え混ぜた色糊を使い、型紙を用いて刷毛で染料を布に染めると言う、摺り友禅・現在藤匠で主になっている技術の始りなのです。これを写し友禅といいます。(写真:紅地束熨斗文繍箔絞振袖・友禅史会所蔵) |
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![]() この写し友禅によって、型染摺り友禅は大量生産が可能になり、染め物を大衆に提供できたと言う事もおおきな点です。 …が、それ以上に模様を表現する為に求められる染色技法の幅を飛躍的に広げたと言う事のほうが大きいと言えましょう。型を使用すると言う事は、大まかな文様でしかなかった染色を超細密な模様も可能にし、型による鋭い線の味は、手書きでは得られない物でもあったのです。(明治の友禅染・紺地舞楽文様友禅打掛) |
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![]() このような優れた技法を持つ友禅染によって得られる、絵画的にすぐれた、世界にも類例の無い特色豊かな文様が友禅染なのです。(写真:洛中洛外図屏風写小袖・現代藤匠作) |
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